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『未来のアートと倫理のために』
住友文彦「美術館は多様性を反映できるのか」論評
白川昌生(美術家、美術評論家)
「美術館は多様性を反映できるのか」を読んだ後、いくつもの考え、おもいが湧き上がってきた。それはこの寄稿文が、現実に起きている問題と関連しているからである。
「キュラトリアル・アクティヴィズム」を提示したマウラ・ライリーの考えを、寄稿文を出した住友は、自らが館長をしているアーツ前橋で活用していると、私は思っている。90年代以降において欧米の大美術館では、その提案が十分な成果を出していないために、東南アジアやアメリカ中西部でアピナン・ポーサヤーナンやルーシー・リパードは、大美術館を出て地域や地方で興味深い活動を展開していることを、住友はとりあげている。大美術館、大展覧会ではなく地域、地方の小美術館、小展覧会で地域の歴史、文化、社会、自然と結びついた単独的な問題を扱った美術活動に注目するべきだと言っているのだ。
そこでは個々の場所が、特有の歴史、文化、生、共同体、政治と具体的に結びついており、個別で不可避的に起きた出来事が強い現実性を呼び起こして出現してくるからである。大美術館で取り上げられる大文字の美、普遍性は出てこない。さらにここでは表現者のアイデンティティが問題となる以上に、それを成立させている他者のアイデンティティが同時に浮き上がってくるのだ。社会的な抵抗運動と不可分のこれらは、これまでのような美術館で鑑賞する、という受容形態をはみ出て行くものである以上、既存の美術館制度をもはみ出て行くはずである。
私の理解が間違っていなければ、既存の美術館のままであれば大きな負担、リスクを引き受ける覚悟が求められ、さらに美術館運営においてもこれまでと違った運営が行われないと、この活動を実現、持続させて行くことは困難になるはずである。なぜなら浮き上がってくる他者の姿に注目するとなれば、当然のことだが予想されない様々な問題が発生してくるはずだからである。単に地方の美術館だからできるということではない問題を不可避的に含んでいるのだ。アーツ前橋はこの点でまだ取り組みを始めたばかりで、ルーシー・リパード達がやってきたような成果が出てくるのかどうか、これからの様子を見ていかなくてはならない。
「グローバル化によって錯覚を起こしがちだが、あらゆる地域との連続性を断ち切って空中に浮遊するような美術館はあり得ない。(略)…美術館は地域社会のメンバーである。その限界と連続性を認識することは、各美術館の性質や特徴をもとに、それぞれのアイデンティティを自覚する機会になるはずだ」と住友は述べている。しかしながら、それぞれのアイデンティティを自覚する、ことが多様性と結びついているとすれば、この作業は前に述べたような難問をいくつも抱えて行われていくことになるはずである。上に述べたように既存の美術館体制、運営を批判し、作り変えることなしに成立しないという課題を同時に抱えているからだ。多様性はそれらの作業なしに私たちの前には、見えてこないと思う。
5月31日に加筆修正しました。白川昌生